2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男
大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」

シラバスに次のように書きました
「以下のような問題について考察します。
知識とは何か。
アプリオリな知識は存在するのか。
共有知は存在するのか。
内在主義と外在主義のどちらが正しいのか。」

       第一回講義 (2008107)
 
「アプリオリな知識と共有知」という題目のこの講義は、一学期に「共有知」について論じ、二学期にはアプリオリな知識について論じ、最後に二つの議論を結びつけるという仕方で講義を進めるという計画です。
 
(暫定的講義計画)
第一部 アプリオリな知識とは何か、それは存在するのか
§1 Kant『純粋理性批判』序論
§2 Quine「経験論の二つのドグマ」(1951『論理学的観点から』1953)
§3 Kripke 『名指しと必然』(1970講義、1972出版)
§4 アプリオリな知識は存在する
Putnam 『実在論と理性』(1983)
 Bealer “A Theory of the Apriori” (1999)
   Bonjour
   Boghossian
§5 アプリオリな知識は存在しない
   Devitt
§6 アプリオリな知識は存在するのか? 
   
第二部 アプリオリな知識が存在するとすれば、どのような仕方で存在するのか。
§7 フィヒテの純粋な観念論 『知識学の叙述』(1801)
§8 Fregeの実在論 「思想」
§9 Dummettの反実在論 「真理という謎」
§10 Brouwerの直観主義
§11 批判的正当化主義と共有知

第一部 アプリオリな知識とは何か、それは存在するのか
§1 Kant『純粋理性批判』序論
 
1、概説
 
「序論」(Einleitung)(B版)
 
「我々のすべの認識は経験とともにmit始まる。」(B1
「しかし、我々の認識のすべてが、経験からaus始まるのではない。なぜなら、我々の経験認識は、我々が印象を通じて受け取ったものと、我々固有の認識能力が自ら産みだしたものとの合成物だからである。」(B1)
 
 
Erkenntnis a prioriempirische Erkenntnis
「アプリオリな認識」「純粋認識」
  =「経験から独立した、また感官のすべての印象からすら独立した認識」B2
    =「端的にすべての経験から独立に生じる認識」B3
 
 アプリオリな認識の標徴:必然性 と 厳密な普遍性
         (経験的普遍性 vs 厳密な普遍性: 
          経験的普遍性の例「すべての物体は重い」(B2, B4)
 
 アプリオリな認識の例:「全ての変化は原因をもつ」(B3)
            「Gold is ein gelbes MetalProlegomena,B15
 
「アポステリオリな認識」「経験的認識」
  =「その源泉をアポステリオリに、つまり経験の中にinもつ認識」B2
  =「アポステリオリに、つまり経験によって可能である認識」B3
 
analytisches Urteil und synthetisches Urteil
 「あらゆる判断において、この関係[主語の述語に対する関係]は、二通りの仕方で可能である。述語Bが、主語Aに(隠された仕方で)含まれているenthaltenものとして、属しているかgehoert、あるいは、Bが、――BはたしかにAと結合しているのであるが――概念Aのまったく外にあるか。前者の場合に、その判断を分析的とよび、もう一つの場合を、綜合的と呼ぶ。」(B10)
 「前者を解明判断Erlaeuterungs-Urteil、後者を拡張判断Erweiterungs-Urteilと呼ぶこともできる。」(B11)
 
 「たとえば、「すべての物体は広がっている」と私が言うとき、これは分析判断である。なぜなら、私は、物体と結合しているものとして延長を見つけるために、私が物体に結びつけている概念を越えでる必要がないからである。むしろ、あの物体の概念をただ分解して、つまり、私が常にその中に考えている多様な物をただ意識すればよいのである。そしてこの述語をそのなかに見つけるのである。これにたいして、私が「すべての物体は重い」と言うとき、述語は、私が物体一般の単なる概念のなかで考えるものとはまったく異なるものである。このような述語の付加は、綜合判断を提供する。」(B11)
 
■判断ないし認識の4分割
 
                   

  

 アプリオリな認識

 アポステリオリな認識

  分析的

  

     @○

     

   綜合的

             

    B○

      C○

 
@は論理学の命題
幾何学が前提する原則(コイノニア)「全体はそれ自身と等しい」「全体はその部分よりも大である」(B17)
Bは数学の全ての命題(算術:「5+7=12」(B15)、幾何学:「直線は二点間で最短である」(B17))と自然学の原理(「物体界の一切の変化において物質の量は常に不変である」「運動の一切の伝達において作用と反作用とは常に相等しくなければならない」(B17)
 
 
Cは経験的な命題
 
 
2、考察
 
■分析判断の分類
 カントは、次のような判断を分析判断の例として挙げている。
    “Gold ist ein gelbes Metal”「金は黄色の金属である」
                  (“Prolegomena”、A26=B15
 しかし、「カラスは黒い」が経験判断であって、厳密な必然性や普遍性をもたないのだとすると、「金は黄色い」もまた同じだ、といえるのではないか。これもまた、経験から学んだのではないのか。
 
「地球は青い」で考えてみよう。「地球」という概念を学習したときに、すでに「青い」という属性を持つものであることを学習しているのならば、彼にとって「地球」の概念の中に「青い」という概念が属しており、それゆえに「地球は青い」は分析判断となる。しかし、「地球」という概念を学習したときに、「青い」ということを学習しなかったものにとっては、「地球」の概念の中に「青い」が含まれておらず、「地球は青い」は綜合判断になる。
(このことは、伝統的な本質的属性と偶然的属性との区別と似ているようにも思える。あるものxにとって、aが本質的属性であり、bが偶然的属性であるとしよう。そのとき、「xがaである」ことは、その定義から必然的である。これに対して「xがbである」ことは、真であるとしても、偶然的である。)
 「カラス」であれ、「地球」であれ、「金」であれ、その概念を定義によって決めたならば、その概念の中に、述語概念が含まれているかどうかが、決まることになる。つまり、分析判断と総合判断の区別のためには、主語概念の定義を規約によって確定する必要がある。
 しかし、カントによれば、我々が経験によって獲得する概念のほかに、アプリオリに持っている概念がある。このアプリオリな概念については、規約によって確定する必要は無い。したがって、分析判断と綜合判断の区別については、主語概念がアプリオリな概念の場合と、経験的な概念の場合を区別しなければならない。
「たとえば、「すべての変化は、その原因を持つ」という命題は、アプリオリな命題であるが、しかし、純粋ではない。なぜなら、変化というのは、経験からだけ引き出され得る概念だからである。」(B3) 
この箇所は、主語概念が、経験的概念であるか、純粋な概念であるかによる区別を、カントが考えている証拠である。
 
(1)主語概念が経験概念である場合。
 
       <主語概念が経験概念である>

  

  アプリオリ

 アポステリオリ

  分析判断

    ○

   ×

  綜合判断

    ○

     

 
 主語概念が、経験的概念であるとき、分析判断は、アプリオリであろうか。そうである。このことは、例を考えれば明らかである。「黄色いランプは黄色い」。
 近代人にとって地動説が、「歴史的アプリオリ」(フーコーの言葉)であるといえるとすれば、「地球は青い」もまた、現代では「歴史的アプリオリ」であるといえる。主語概念を前提すれば、分析判断は、必然性をもつといえるので、このような判断をアプリオリということができる。
 他方では、「地球は青い」は「カラスは黒い」と同じ、経験判断であるということができる。それならば、これはアポステリオリな判断である。
 つまり、主語概念が、経験判断であるときには、分析判断と綜合判断の区別は、厳密な必然性をもつか否かという区別ではなくて、むしろ、述語概念が、主語概念にとって、本質的な概念であるか、偶然的な概念であるか、の違いである。これは、主語概念の定義の問題である。
 
では、経験的な主語概念をもつ綜合判断のなかに、アプリオリなものがあるだろうか。ある。たとえば、「この三角形の内角の和は、二直角である」というのが、それである。この判断は、アプリオリである。しかし、この判断の主語は経験的概念である。
 前に引用したが、カントのあげている例では、次のようなものがある。
 「アプリオリな認識について、我々は、経験的なものが全く混じっていない認識を、純粋とよぶ。たとえば、「すべての変化がその原因をもつ」と言う命題は、アプリオリな命題であるが、しかし純粋ではない。なぜなら、変化という概念は、経験からだけ引き出され得る概念であるからである。」B3
 つまり、この命題は、主語が経験概念であり、しかもこの命題は、アプリオリであるといわれる。
そして、この命題は、おそらく綜合判断として理解されているように思われる。
 「この火事には原因がある」これもまた、主語概念が経験的である、アプリオリな綜合判断であるだろう。
 
 
 
(2)主語概念が純粋な概念である場合。
       <主語概念がアプリオリである>

  

 アプリオリ

 アポステリオリ

  分析判断

    ○

    ×

  綜合判断

     

       ×?

 
 主語概念が、アプリオリな概念であるとき、それについての分析判断は、アプリオリな判断であり、それについての綜合判断は、アプリオリなものと、アポステリオリなものに分かれるということになるのだろうか。
 ところで、アプリオリな概念が主語となるとき、経験判断というものは可能だろうか。「この三角は、青い」では、主語は、経験的概念である。「三角形は、青い」は、偽である、というよりもむしろ無意味である。なぜなら、偽であるとすれば、その否定「三角形は、青くない」が真でなければならないが、これは真ではないからである。
 「アプリオリな主語概念をもつ判断に、アポステリオリな判断はない」といえそうである。
 
■問題「論理学の命題は分析判断であるが、それは認識されるのか?」
 否。なぜなら、カントの場合、認識とは、直観と概念の結合によって成立するものだからである。
「内容なき思想は空虚であり、概念なき直観は盲目である。」(B75)
 
■三種類の判断? 論理学はいかにして可能か?
論理学は経験なしに成立する(アプリオリな判断、認識ではない)
経験と共に成立する(アプリオリな認識)
経験によって成立する認識(アポステリオリな認識)
 
 
「論理学とは、単なる形式から見てではなく実質からみて理性の学であるということだ。というのは、論理学の諸規則は経験から取られてはおらず、論理学は同時にその客観として理性をもっているからだ。だから論理学とは悟性と理性の自己認識であるが、客観に関する悟性と理性の能力からみてではなくもっぱら形式から見ての自己認識である。」(講義「論理学」『カント全集17』岩波書店、p.20
論理学とは、単なる形式から見てではなく実質から見て理性の学であり、思考の――とはいえ特殊な諸対象に関するのではなく、すべての対象一般に関するような思考の――必然的な諸規則についてのアプリオリな学である。――だから悟性と理性の正しい使用一般――とはいえ主観的にいって、いかに悟性が思考するかという経験的な(心理学的な)諸原理からみてではなく、客観的にいって、いかに悟性が思考すべきかというアプリオリな諸原理からみての、そうした使用一般――についての学である。」(講義「論理学」『カント全集17』岩波書店、p.22
 
問題「論理学が悟性と理性の自己認識であるとして、それはいかにして可能だろうか?」
答え1:次の引用文にあるように、悟性や理性の使用を何度もおこなうことによって、それを反省することが可能になり、その反省によって使用の規則を知るのである。
「我々の諸能力の行使も、我々が遵守するある種の諸規則に従っておこなわれ、そうした規則は最初は意識されない。そうした規則の認識に我々は、我々の諸能力に関する試行と長期にわたる使用によって徐々に到達するのだが、最後にはそうした規則を熟知するあまり、それを抽象的に思考するには多くの労力を要するほどになるのである。」(講義「論理学」『カント全集17』岩波書店、p.15
 
これは、悟性や理性の使用の経験をいくら積んでも、そこから心理学的な法則は発見できても、思考の規範的な法則は発見できない。事実から規範は導出できないからである。
この批判を避けようとするのならば、悟性や理性の使用において、我々が同時に規範意識を持ちながらそれを使用しており、その規範意識をともなう使用の経験から、規範的な規則を発見するのである。しかし、これは、我々の規範意識についての心理学的な事実の認識である。それでは、我々が規範意識を持っていることは発見できても、その規範が規範としての正当性を保証することはできない。
 
 カントは、真理の論理的な基準として、次の三つの原則を提出するが、この原則の正当性はどのようにして認識されるのか、あるいは証明されるのか?
 
「真理の普遍的な、単に形式的ないし論理的な基準として、以下の三つの原則を提出することが出来るのである。
(1)矛盾律ならびに同一律(principium contradictionis und identiatis)。これによって、認識の内的な可能性が蓋然的な判断に関して規定される。
(2)十分根拠律(rinciium rationis sufficientis)。これには認識の(論理的な)現実性、認識が根拠付けられており実然的な判断のための素材となっていること、が基づく。
(3)排中律der Satz des ausschliessenden Drittenprincipium exclusi medii inter duo contradictoria二つの矛盾した命題の中間にある命題を排除する原理)これを根拠として、確然的apodiktischな判断に関して、認識の(論理的な)必然性――別様ではなくて必然的にそう判断されねばならないこと、すなわち反対が偽であること−−が成り立つ。」(講義「論理学」『カント全集17』岩波書店、pp. 73-74